2013/04/13

「天眼("Viljans Öga)」アングラガルド

原題:Viljans Öga(2012)
  Änglagård

1990年代初頭に北欧スウェーデンから突如現れ、圧倒的なヘヴィー・シンフォニック・サウンドを誇る3枚のアルバム(内1枚はライヴ)を発表後に解散したAnglagardが、2012年に18年ぶりの新譜を発表した。

通常の曲展開の定石に縛られず、曲をどんどん展開させて行く先の読めない構成や、静寂から轟音までの急激で時に唐突なほどの揺れ、グルーヴしないドラムスのナタで叩き切るような打音、低音でも研ぎすまされた鋭角的な音で迫るリッケンバッカー・ベース、暗く寂しい森の奥へと足を踏み入れていくようなフルートとメロトロン。基本的な特徴は18年前の作品群を継承していると言って良い。しかしサウンドの深みはその比ではない。

Mattias Olsson: drums, percussion and noise
Johan Brand: bass and Taurus
Thomas Johnson: Pianos, Mellotrons and synths
Jonas Engdegård: guitars
Anna Holmgren: flute and saxophone

with:
Tove Törnberg: cello
Daniel Borgegård Älgå: clarinet, bass clarinet, baritone saxophone
Ulf Åkerstedt: bass tuba, bass trumpet, contrabass trumpet

曲展開が読めないため予定調和的な安心感を得られないことから、彼らのサウンドにはどこか聴く人の共感を拒絶するようなところがある。しかし、だからと言ってそこにはアンチ・ポップス的な意図や主義主張的なものは感じられない。分かる人が分かれば良いというような自己満足的な開き直りもない。自分たちのオリジナルな音楽を誠実に突き詰めた結果、そうなってしまったというような壮絶さがあるのだ。

恐らくそうやって音楽を創出していく作業は非常に過酷なことだったと思われる。解散を決意したというProgfest '94のステージを記録した3rdライヴ・アルバムのタイトル「Buried Alive(生き埋め)」が、当時のメンバーのギリギリの精神状態を物語っていると言えよう。


そして18年ぶりに届けられた新譜では、上記のような基本的なAnglagardサウンドを継承しつつも、かつての叙情を断ち切るような急激な変化は影を潜め、次々に展開していく一曲一曲の流れは聴けば聴くほど説得力を増し、何より心に沁み居るような美しい素朴でメロディーが、曲の魂のように用意されているのであった。そこに今までの作品には無い“色気”のようなものが感じられるのだ。

特に1曲目と3曲目(全4曲)のメイン・テーマは、キラー・メロディーと呼びたいほどの素晴らしさである。そこに山場を持っていく曲構成も素晴らしい。

いわゆる“シンフォニック・ロック”な音像ではなく、室内楽のような生々しい楽器の音も特徴で、特に低音域で活躍するフルートが今回は目立っている。フルートとサックスを操るAnnaの存在感がとても増していると言える。

アレンジもさらに複雑さを極め、メロディーの周りで複数の楽器が常に絡み合っている。そして全編通じて薄暗い悲しみと途切れることの無い緊張感が漂っているのだ。

私的にはやっと、やっと70年代に比肩しうる“今の時代”のプログレッシヴ・ロックが生まれたように思う。もちろん好みの問題はあろうけれど、70年代の有名なバンドのサウンド+αではなく、70年代のバンドには到達出来なかった別世界にAnglagardは到達したのだ。そう言う意味も込めて今作は彼らの最高傑作である。 

作品の完成を待っていたかのように、あるいは全ての力を注ぎ尽くしたかのように、バンドはアルバム発表後の2012年秋に大幅なメンバーチェンジを行なう。中心人物であったMattiasを筆頭に、ギターのJonasとキーボードのThomasが脱退し、かつてのメンバーTord Lindmanが復帰、さらにドラムスとキーボードに新たなメンバーを加えて、バンドは再始動した。

2013年に奇跡の来日を果たし、その後も精力的にライヴをこなしている彼らが、新しいラインアップでどのような音を造り出してくれるか、興味と興奮はまだまだ尽きない。

2012/11/19

「枯れ葉が落ちる庭園」イングランド

Garden Shed(1977)

England

Englandは1977年という、プログレッシヴ・ロックのブームが次第にパンク&ニューウェーヴに飲み込まれようとしていた頃に登場したバンドである。Aristaレーベル唯一と言えるプログレ・バンドでありながら、満足なプロモーションはされず「Aristaのマーケティング担当者は、アルバムが発売される週には揃って休暇を取ってどこかに行っていたんだ。」という有様であったという(Robert Webb インタビューより)。

King Crimsonはすでに1974年に解散している。1977年という年には、Yesは「Going for the One(究極)」を、Genesisは「Wind & Wuthering(静寂の嵐)」、そしてEL & Pは「Works Volume I(ELP四部作)」を、さらにPink Floydは「Animals」発表したが、いずれも悪いアルバムではないものの、従来の冒険に満ちた姿勢や刺激的な音は消え、その後のポップな路線に向う転換点となったアルバムである。

しかしそれまでシーンを強力に牽引していたバンドに翳りが見えて履いたものの、Camelの「Rain Dances(雨のシルエット)」が1977年、UKのデビューアルバム「UK(憂国の四士)」が1978年、The Enidの名作「Aerie Faerie Nonsense」が1977年、Illusionの「Out of Mist(醒めた炎)」が1977年など、まだまだ力のあるバンドが音楽シーンと格闘しながら魅力的な作品を出している時期であった。

Englandはそこに登場したのである。それまでの活動を縮小/変更したのではなく、まさにその時期のプログレシーンにダイレクトに向けた音を携えて。

Martin Henderson - Bass, Vocals
Franc Holland    - Guitars, Vocals
Jode Leich       - Percussion, Bass, Vocals
Robert Webb      - Keyboards, Vocals

 左からRobert Webb, Martin Henderson, Jode Leigh, Frank Holland

UKはパンクへの挑戦という姿勢で、ジョン・ウェットンのポップな感覚を強めながらも、強烈なテクニックと変拍子満載の複雑な楽曲で対抗しようとした。しかしEnglandはハナからパンクなどのシーンには興味がなかったかのように思えるのだ。唯一のアルバムとなったこの「Garden Shed」を聴くと、自分たちが聴いてきたバンドやそのサウンドが、好きで好きでたまらないという思いが伝わってくる。

指摘され易いのはYesとGenesisの影響である。甲高いスネアが特徴のドラムスは一聴するとBill Brufordを思い出させるし(プレイは実は似ていない)、高音でハモルとYesに近づく。叙情的なギター&キーボードやちょっと演劇的なボーカルは確かにGenesis的である。

確かに最初はその部分に違和感や拒否感を感じるかもしれないが、次第に「僕らはこういうバンドが好きで、こういう音楽をやりたいんだ」という強い主張として微笑ましく聴けてしまうのだ。それは何よりも曲がモノマネや寄せ集め的なものではなく、非常に良く出来ていて魅力的なことによる。

スネアの音が個性的なドラムスもプレイはいたって堅実で、細かく展開して行く曲を上手く引き締めているし、ボーカルも良く聴けばポップソングにも向いている甘い声である。そしてメロトロンの劇的な使い方も含めて、曲構成が聴き手を飽きさせないのだ。メロディーも、キャッチーでありながらドラマチックな演奏と違和感なく溶け合っているところが素晴らしい。

そこには1970年代前半の活動でやり尽くした後の、次なる展開を探る迷いもなければ、やりたい事をやり続けるのか“ポップ化”して時代を乗り切るのかというジレンマもなく、また時代に抵抗しようという気負いもない。ただ1970年代前半のシーンへの愛と、そういう音楽を奏でたいという強い思いと、時代がどうであれ自分たちはそれで良いんだという自信が感じられるのである。

それを可能にしているのはやはりそういう思いや姿勢を曲に反映させられるだけの作曲センスと、突出しているプレーヤーはいないけれど、堅実に美しいアンサンブルを聴かせてくれる、各メンバーの技量なんだと思う。

まさに“愛すべき作品”という言葉がぴったりな傑作である。

2012/10/02

「Progressive Rock by String Quartet with Mellotron」

邦題:弦楽四重奏とメロトロンによるプログレッシヴ・ロック、そしてボーカルは何処に

■Moment String Quartet & Rui Nagai(永井ルイ)

音楽雑誌『ストレンジ・デイズ』編集長の岩本晃市郎が主催するライヴ・イベント<空想音楽博物館>のコンセプトから生まれた、プログレッシヴ・ロックの名曲 カバー・アルバム。プログレッシヴ・ロックの中でも弦楽器を主とした楽曲を選び出し、Moment String Quartetによるストリングスと永井ルイによるメロトロンの演奏で数々の名曲を独特なアレンジで聞かせるアルバムだ。

弦楽器を主とした曲と言いながら選曲が渋く、「オブセッション」(エスペラント)、「木々は歌う」(マウロ・パガーニ)、「オーキャロライン」(マッチン グ・モール)などが含まれるところが、またプログレ・マニアック魂を刺激してくれる。さらにインプロヴィゼーションであったキング・クリムゾンの「トリ オ」までやってくれるのだ。

しかし思うに、そもそも生の弦楽四重奏とメロトロンの組み合わせというのは何を意味するのか?弦楽器とメロトロン・フルートならタイプの違う“楽器”なので 成立するであろうが、メインとなるメロトロン・ストリングスは、生楽器と組み合わせる意味はないのではないか?事実ここで取り上げられているオリジナル曲 でも、クラシカル弦楽器とメロトロン・ストリングスが登場するものはない。そもそもクラシカル弦楽器の代わりとしてメロトロンが使われていたわけなんだし。

つまりこの組み合わせはどこか“お馴染み”な感じがしていながら、今までにない“未知”な試みなのである。 

何となくこの“弦楽四重奏とメロトロン”という組み合わせにマジカルな魅力を感じながらも、実際には生楽器の前にメロトロンの魅力は半減してしまうんじゃないか、ロック・フォーマットの中でこそメロトロンの音は活きるんじゃないか、そんな予想もしていたのであった。

アレンジ的な特徴としては、Moment String Quartetは曲の骨格を担当する。オリジナルがロックな曲(「原始への回帰」「オブセッション」など)は、その管弦楽アレンジで曲を聞かせる。モン ゴーア・クァルテットの「21世紀の精神正常者たち」的である。オリジナルも弦楽器曲(「プレリュード」「木々は歌う」「悲しみのマクドナルド」など)の 場合は、ほぼそのまま再現される。

原曲が丁寧に管弦楽アレンジされて、原曲のイメージに近いかたちでメロトロンが登場するという点では新奇さや意外性はない。むしろ曲の骨格がメロトロンの音(ストリングス)に近づいている分、曲のダイナミズムやメロトロンのアンサンブル的な役割は薄らいでいるとも言える。

では弦楽四重奏とメロトロンの組み合わせは失敗であったのか?

いやいやそれが違うのである。もし弦楽四重奏だけの演奏であったなら、選曲は面白いし弦楽アレンジも本格的だが、音楽的には凡庸なライト・ミュージックになっていたかもしれない。艶やかで情感豊かなバイオリンの音。そしてクラシカルで立体的なアンサンブル。多少リズム楽器が入るがロックのようなパワフルな世界とは無縁な上品な調べ。それはオリジナルの角が丸くなったような、刺激の薄い世界であったろう。

ところがここにメロトロンが入ると様相は一変する。確かにストリングス音だと生楽器に似た音が重なることになる。しかし、だからこそメロトロンの、“圧倒的な音の壁”と“冷たさ”が際立つ。それが生ストリングスが紡ぐ情感の連なりを寸断し、曲に大きな揺らぎをもたらし、聴く者を別世界へと突き落としてくれるのだ。

クラシカルな弦楽器は音やフレーズ、そして曲の展開において、隅々にまで情感が宿る。それはもともとノイズを重要な要素として持つロック・フォーマットによ る演奏をはるかに凌ぐ。そこに情感を排除したようなメロトロンの音が登場すると、その異質性が増幅されるのだ。生楽器と似た音なのに決定的に何かが違う。 音の立ち上がりや揺らぎは、どこか非人間的な生理に基づいていいるかのようだ。そう、まるでゾンビのように。その美しさも情感が込められ表現された美しさではない。もっと別の人知を越えた何かに触れたような美しさだ。そういう音が“人間的な”生の音に暴力的に被さってくるのだ。

メロトロンの音が持つこうした特徴は、ロックフォーマットの中でも感じられていたものだった。だからこそ多くのバンドは生のストリングスやフルートとは別の ものとして、メロトロンを敢えて使ってきたのだろう。それが今回わざわざ生のストリングスにぶつけることで、メロトロンの異質性がよりいっそう浮き彫りに されたように思うのである。

メロトロンに光を当てながらも終始鳴らし続けるのではなく、“ここぞという時に登場”させるメロトロンらしい使い方もとても上手い。そういうメロトロンの使い方を心得ている感じも、結果としてこのアルバムをとても面白く聞き応えのある作品にしたように思う。

名曲カバーに拘らずに突き進んでいければ、美しい生ストリングスを配しながら呪術的な、かなり面白い音楽が作れるんじゃないだろうか、などと思ってしまいました。

「プログレッシヴ・ロック名盤選」というよりは「番外編」ということで。