2009/06/18

「狂気」

The Dark Side Of The Moon (1973年)

Pink Floyd(
ピンク・フロイド)


イギリスから世界へ飛び出して一番成功したプログレッシヴ・ロックバンド、それがピンク・フロイドだろう。その最大のモンスター・ヒット作がこの1973年作の「The Dark Side Of The Moon」(邦題は「狂気」)である。

全英2位、全米1位、そしてビルボード誌のアルバムチャート200位以内に、なんと15年間もチャート・インし続けるという偉業を成し遂げた。シングルカットされた「Money(マネー)」もヒットした。

すでに1970年の「Atom Heart Mother」(邦題は「原子心母」)や1971年の「Meddle」(邦題は「おせっかい」)で、LP片面一曲という大曲を試みているが、本作では一見9曲からなる小曲集に見えるようでいて、実は全曲を通して聴くことを前提としたトータルアルバムになっている。つまり全一曲。

とは言ってもそれぞれ個性豊かな曲が、自然なかたちで結びつき、全体としてトータルなイメージを作り上げているということで、難解でも大仰でもなく、むしろそれ以前のアルバムに比べて聴きやすいとさえ言える。

 Davie Gilmour:ボーカル、ギター、VCS3
 Roger Waters:ベース、ボーカル、VCS3、テープイフェクト
 Richard Wright:キーボード、ボーカル、テープイフェクト
 Nick Mason:パーカッション、テープイフェクト

この他に、サックスにDick Parry(ディック・パリー)、スキャット・ボーカルにClare Torry(クレア・トリー)、そしてバッキングコーラスにさらに女性4人が加わるという、今までになくゲストの多い布陣。ちなみにVCS3というのは当時出ていたアナログシンセサイザーのこと。

しかし今聴いても実に巧みな作りになっている。心臓の鼓動のような音。後の「マネー」で出てくるSE、「虚空のスキャット」の予告のような女性の声が入り交じり、ゆったりとしたサウンドが始まる。

今改めて聴くと恐ろしく音が少ない。それでもPink Floydeが持つこの独特の心地よい浮遊感に魅き込まれる。そして力を抜いたボーカルが入る。このボーカルがいつ聴いても素晴らしい。美しいハーモニー だ。優しい声、優しいサウンドに包み込まれる感じ。ピンク・フロイドはコンセプトやムードや、Gilmourのギターで語られることが多いが、ボーカル ハーモニーの魅力は飛び抜けていることを軽んじてはいけないと思う。

「The Dark Side Of The Moon」(月の裏側)、とか「狂気」とかいったタイトルから、何か哲学的な、小難しく取っ付きにくい世界なのかと思ってしまうが、さにあらず。 「Breathe(生命の息吹き」で美しいハーモニーを聴かせ、そのまま「On The Run(走り回って)」ではシンセの反復音が左右にパンする中、走る足音が響く。手法としてはわかりやすい。陳腐と言われかねない。

しかし音の使い方が非凡なのだ。アルバム全体に言えることだけど、一つ一つの音を、計算し尽くして大事に作り込んでいる。SEも、何かに追い詰められているような感覚を作り出す。そして飛行機が墜落するような爆発音。

悪夢でも見ていたかのように、ベルの音の嵐が始まり次の「Time(タイム)」が始まる。ここでも一音一音が美しい。そしてGilmourの男っぽいボーカルが入る。ギターソロもカッコいい。この曲で入るソウルフルな女性コーラスが、実は次の「The Great Gig In The Sky(虚空のスキャット)」への導入になっている。流れが巧みだ。

ピアノの静かな音に人のつぶやきが重なる。「On The Run」でも、次の「Money」や「Us And Them」でもそうだが、こうした人の自然なつぶやき声もこのアルバムのトータル性や聴く者の精神的な不安定さを増すのに貢献している。そして「The Great Gig In The Sky」はソウル風な、ドラマチックで表現豊かなスキャットをメインに進む。これも今までのPloydにはなかったアプローチだ。旧LPではここでA面が終わりちょっとブレイク。

「Money」は個人的には正直ちょっと間の抜けた感じの、あまり面白くない曲。7拍子が特徴だが間奏部分のギターソロで通常の4/4になる切り替えがスリリングだか。でもこれがシングルヒットしてしまうんだから世の中わからない。

続く「Us And Them(アス・アンド・ゼム)」の方がボーカルがドラマチックに盛り上がり、Rick Wrightのオルガン、ピアノも美しい。間奏部のサックス、バックのコーラスも力強い。そのまま切れ目なしでインストゥルメンタルナンバー「Any Colour You Like(望みの色を)」に入り、途中ギターの会話のような掛け合いが入る。考えてみれば、それまでの実験的なインストゥルメンタルパートがほとんど姿を消している。

そして再び切れ目なしで「Brain Damage(狂人は心に)」。「狂気」という邦題タイトルはここから来たのか。「lunatic」という言葉は、もともとローマ神話における月の神 Lunaを起源として、「luna」は「月」のこと指す。人の精神状態は月の満ち欠けに影響されると考えられていたことから、狂気=lunaticという つながりができたという。「Dark Side Of The Moon」にピッタリの表現というわけだ。

曲はそのままラスト「Eclipse(狂気日食)」へ。「すべては太陽の下で調和を保っている。だがしかし…その太陽は月に食される(隠される)」という言葉でこの曲は終わる。調和は実はもろく、すぐその裏には狂気が隠されているとでもいうように。

実はその後、心臓の鼓動のようなSEに重なって「There is no dark side of the moon really. Matter of fact it's all dark(本当は月の暗い側なんて存在ないのだ。実際はすべてが闇だからね。)」というつぶやき声がまたまた聴こえるのだ、小さい声で。

こうして「The Dark Side Of The Moon」はトータル42分余りで終わる。「Time」における人生の無力感、「Money」における拝金主義、「Us And Then」における戦線に行かざるを得ない人やそうでない人との不公平な運命、不条理さ、「Brain Damage」における心の闇と、一見多面的に狂気を描いているようでいて、実はこのアルバムがリスナーに迫ってくるのは、Floyd的心地よさに包まれているからこそ不気味に心に入り込んでくる、つぶやき、笑い声、話し声などなのかもしれない。

実験的な難解さから分かり易さへ一歩近づいたことで生まれた、時代を超えた究極の一枚。個人的には最初に買った洋楽LP。それなのに「On The Run」のところにキズを付けてしまってすっごく後悔したことを憶えている。

「Meddle(おせっかい)」も一聴すると地味ながら奥の深いアルバムだが、そこからこの「The Dark Side Of The Moon」への、短期間での急激な変貌が、当時のロック興隆期とバンドの勢いを物語っているかのようだ。傑作中の傑作。