Enid(エニド、正確にはイーニッドに近い)というのは、イギリスのプログレッシブ・ロックバンドである。特にその初期において、作り出す音楽はロックフォーマットに寄るクラシック音楽と言えるほど、文字通りクラシカルであった。
初期のThe Enidは、全編オールインストゥルメンタル。甘いピアノ独奏曲が含まれていたりもする。ドラムスも、ロック的なパワフルでストレートなリズムでも、ジャ ズ的な繊細なスイングするリズムでもなく、オーケストラのパーカッション的な役割。つまりリズムキープではなく装飾的役割なのだ。
このEnid、ある意味プログレッシヴ・ロックにおける「踏み絵」みたいなところがある。つまりEnidをどう評価するかが、プログレッシヴ・ロックをどう捉えているかを物語ってしまうみたいな。
例えば「エニドなんちゅうゴミ・バンドのクラシックのなりそこないみたいなレコード」、「志しの高い低いの前に、行為自体が実験的でも革新的でもない、ただ の自己耽溺のイージー・リスニング」 (「プログレのパースペクティヴ」松山晋也、ミュージック・マガジン、2000年) というような評価が出てきたりする。
ロックが持っていた、歴史あるクラシック音楽に対するコンプレックスの現れみたいな言われ方をする場合もある。
ではわたしはEnidをどう聴くか。
まず純粋に美しいと思う。もちろんロックをはみ出しそうなほどにクラシカルである。しかしそれをクラシックのまがい物的なものとしては考えない。 リー ダーでキーボード担当のRobert John Godfreyにすれば、ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック出身で、Berkley James Harvestの専属オーケストラのコンダクター及びオーケストラ・アレンジを行ったりしているくらいだから、いわゆる純粋なクラシック作品を作ることはできるはずなのだ。
しかし自身のソロアルバム「Fall Of Hyperion」では、極めてクラシック歌曲風な楽曲に、ロック的なダイナミズムを組み合わせようとしている。The Enidはそれをさらに押し進めるための実験の場であったのだと思う。
クラシック音楽自体がすでに文字通りの「古典的」音楽として存在しているという現状から、その先へ進もうとしたのがThe Enidだったのではないか。ロックフォーマットによるクラシック音楽的世界の構築。あるいはクラシック音楽という音楽形態の現代的なあり方の追求。
クラシカルではあるが、クラシック音楽としては活かせないエモーショナルなエレキギターがThe Enidの大きな魅力でもあることは大きい。ここでもやはりキーボード主体の管弦楽シミュレーション的な部分と、エレキギターのロック的な魅力が渾然一体となっている。
さらに驚くべきは、1970年代半ばという時代にこれだけクラシカルな構成の音楽を作り上げたということ。コンピュータプログラミングも、デジタル機器の共通規格MIDIさえもまだ登場しておらず、ストリングスやブラスを担当するキーボードは手弾きでの演奏だ。
しかし音の強弱、テンポの緩急をみごとにコントロールしたプレイが素晴らしい。 特に現在流通されている初期の2作品「In The Region Of The Summer Stars」、「Aerie Faerie Nonsense」(右ジャケット図)、1980年代の再録音源で、デジタル機材の進歩などから音も分厚く、アレンジも派手目になっているが、最初の 1970年代のオリジナル作品には、無理を承知で、今思えば貧弱な機材を使って、新しいクラシック音楽、あるいは新しいロックを作ろうという緊張感と気概 を感じ取ることが出来る。
未CD化が残念でならない。再録されていない3枚目の「Touch Me」にその雰囲気が聴き取れるかと思う。
つまり革新性や実験性をどこに見るか。何をもって革新的であり実験的であると言うのか。その革新性や実験性をどこまで音楽全体の魅力の中での重要視するか。
そこで革新性や実験性、結果としてのジャンル横断性、脱ジャンル性を突き詰めていくと、いわゆる今「プログレッシ ヴ・ロック」と呼ばれているものとズレてくる。
そのズレを革新性・実験性中心に追いかけていくと、かつての「Fool's Mate(フールズ・メイト)」や「Marqee(マーキー)」のように、当初プログレッシヴ・ロックを専門に扱っていた雑誌が別雑誌になってしまうとい うことが起こる。
わたしは「プログレッシヴ・ロック」は一つのジャンルだと思っている。それは「Euro-Rock Magiazine」(マーキー・インコーポレイテッド)のように、これまでの「プログレッシヴ・ロック」の世界を基本としながら、革新性や実験性を評価 していこうという雑誌の姿勢に近い。
もちろん、The Enidの音楽は非常に美しい。非常にクラシカルでありながらオーケストラでは代替出来ない美しさを秘めている。 すでにそれは一つの革新性の現れである。とともに、The Enidの聴き方も多分にオタク的な要素が入っている。
「わずか6人のメンバーで、例え批判的にでも『これではクラシックじゃないか』と言わせるほど練り上げた音楽を作り上げたのか〜」とか、本来ならば生ストリン グスでもおかしくないところを、手弾きのストリングスシンセをここまでコントロールして、人を感動させることが出来るのか〜」とか。
革新性・実験性にも、その志しにも、様々な視点があるし、様々な楽しみ方がある。誤解を起こし易い「プログレッシヴ・ロック」という名前を冠した音楽だとい うことを差し引いても、「革新性、実験性がない」(プログレッシヴではない)と断定し、安易に「ゴミ」とか言えるはずがないとわたしは思う。
実際The Enidが「自己耽溺」なだけであったら、1970年代後半にニューウェイヴの嵐の中、他のプログレッシヴ・ロックバンドの撤退、方向転換を尻目に、孤高の存在として観客を動員し続けることなんてできなかったはずだし。
そこには「エニド以外はパンクしか聴かない連中も多く含まれていた」(「Touch Me」日本版CD2006年版ライナーノートより)という魅力にこそ、「プログレッシヴ」なのではないか。
何より英「Melody Maker」誌に「GenesisやJethro Tullがアメリカに行ってしまっても、イギリスにはまだEnidがいるじゃないか」(「Euro-Rock Press vol.32」より)と言わしめた事実が、他のバンドにはないThe Enidの存在の大きさを物語っているのではないだろうか。
初期のThe Enidは、全編オールインストゥルメンタル。甘いピアノ独奏曲が含まれていたりもする。ドラムスも、ロック的なパワフルでストレートなリズムでも、ジャ ズ的な繊細なスイングするリズムでもなく、オーケストラのパーカッション的な役割。つまりリズムキープではなく装飾的役割なのだ。
このEnid、ある意味プログレッシヴ・ロックにおける「踏み絵」みたいなところがある。つまりEnidをどう評価するかが、プログレッシヴ・ロックをどう捉えているかを物語ってしまうみたいな。
例えば「エニドなんちゅうゴミ・バンドのクラシックのなりそこないみたいなレコード」、「志しの高い低いの前に、行為自体が実験的でも革新的でもない、ただ の自己耽溺のイージー・リスニング」 (「プログレのパースペクティヴ」松山晋也、ミュージック・マガジン、2000年) というような評価が出てきたりする。
ロックが持っていた、歴史あるクラシック音楽に対するコンプレックスの現れみたいな言われ方をする場合もある。
ではわたしはEnidをどう聴くか。
まず純粋に美しいと思う。もちろんロックをはみ出しそうなほどにクラシカルである。しかしそれをクラシックのまがい物的なものとしては考えない。 リー ダーでキーボード担当のRobert John Godfreyにすれば、ロイヤル・アカデミー・オブ・ミュージック出身で、Berkley James Harvestの専属オーケストラのコンダクター及びオーケストラ・アレンジを行ったりしているくらいだから、いわゆる純粋なクラシック作品を作ることはできるはずなのだ。
しかし自身のソロアルバム「Fall Of Hyperion」では、極めてクラシック歌曲風な楽曲に、ロック的なダイナミズムを組み合わせようとしている。The Enidはそれをさらに押し進めるための実験の場であったのだと思う。
クラシック音楽自体がすでに文字通りの「古典的」音楽として存在しているという現状から、その先へ進もうとしたのがThe Enidだったのではないか。ロックフォーマットによるクラシック音楽的世界の構築。あるいはクラシック音楽という音楽形態の現代的なあり方の追求。
クラシカルではあるが、クラシック音楽としては活かせないエモーショナルなエレキギターがThe Enidの大きな魅力でもあることは大きい。ここでもやはりキーボード主体の管弦楽シミュレーション的な部分と、エレキギターのロック的な魅力が渾然一体となっている。
さらに驚くべきは、1970年代半ばという時代にこれだけクラシカルな構成の音楽を作り上げたということ。コンピュータプログラミングも、デジタル機器の共通規格MIDIさえもまだ登場しておらず、ストリングスやブラスを担当するキーボードは手弾きでの演奏だ。
しかし音の強弱、テンポの緩急をみごとにコントロールしたプレイが素晴らしい。 特に現在流通されている初期の2作品「In The Region Of The Summer Stars」、「Aerie Faerie Nonsense」(右ジャケット図)、1980年代の再録音源で、デジタル機材の進歩などから音も分厚く、アレンジも派手目になっているが、最初の 1970年代のオリジナル作品には、無理を承知で、今思えば貧弱な機材を使って、新しいクラシック音楽、あるいは新しいロックを作ろうという緊張感と気概 を感じ取ることが出来る。
未CD化が残念でならない。再録されていない3枚目の「Touch Me」にその雰囲気が聴き取れるかと思う。
つまり革新性や実験性をどこに見るか。何をもって革新的であり実験的であると言うのか。その革新性や実験性をどこまで音楽全体の魅力の中での重要視するか。
そこで革新性や実験性、結果としてのジャンル横断性、脱ジャンル性を突き詰めていくと、いわゆる今「プログレッシ ヴ・ロック」と呼ばれているものとズレてくる。
そのズレを革新性・実験性中心に追いかけていくと、かつての「Fool's Mate(フールズ・メイト)」や「Marqee(マーキー)」のように、当初プログレッシヴ・ロックを専門に扱っていた雑誌が別雑誌になってしまうとい うことが起こる。
わたしは「プログレッシヴ・ロック」は一つのジャンルだと思っている。それは「Euro-Rock Magiazine」(マーキー・インコーポレイテッド)のように、これまでの「プログレッシヴ・ロック」の世界を基本としながら、革新性や実験性を評価 していこうという雑誌の姿勢に近い。
もちろん、The Enidの音楽は非常に美しい。非常にクラシカルでありながらオーケストラでは代替出来ない美しさを秘めている。 すでにそれは一つの革新性の現れである。とともに、The Enidの聴き方も多分にオタク的な要素が入っている。
「わずか6人のメンバーで、例え批判的にでも『これではクラシックじゃないか』と言わせるほど練り上げた音楽を作り上げたのか〜」とか、本来ならば生ストリン グスでもおかしくないところを、手弾きのストリングスシンセをここまでコントロールして、人を感動させることが出来るのか〜」とか。
革新性・実験性にも、その志しにも、様々な視点があるし、様々な楽しみ方がある。誤解を起こし易い「プログレッシヴ・ロック」という名前を冠した音楽だとい うことを差し引いても、「革新性、実験性がない」(プログレッシヴではない)と断定し、安易に「ゴミ」とか言えるはずがないとわたしは思う。
実際The Enidが「自己耽溺」なだけであったら、1970年代後半にニューウェイヴの嵐の中、他のプログレッシヴ・ロックバンドの撤退、方向転換を尻目に、孤高の存在として観客を動員し続けることなんてできなかったはずだし。
そこには「エニド以外はパンクしか聴かない連中も多く含まれていた」(「Touch Me」日本版CD2006年版ライナーノートより)という魅力にこそ、「プログレッシヴ」なのではないか。
何より英「Melody Maker」誌に「GenesisやJethro Tullがアメリカに行ってしまっても、イギリスにはまだEnidがいるじゃないか」(「Euro-Rock Press vol.32」より)と言わしめた事実が、他のバンドにはないThe Enidの存在の大きさを物語っているのではないだろうか。